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 先週の日曜日に母に頼んだ荷物が届いて、りんごは3つ入っていた。引っ越す前にはタルトに使ったり、夕食後に母親が剥いてくれたりんご。
 ビタミン剤は昨日ヨドバシで注文した。生理不順なのもにきびが治らないのも朝が異常に怠いのもビタミン不足のせいで、これが届けば全ての不調は消えると信じた。よってビタミン剤を服用するまではこの不調があるのは当然ということになるし、昨日はそれで問題を先延ばしにしたつもりが今朝には届いてしまった。
 りんごには大きな傷が付いていて、直感的に母親が怒っていると感じた。私が家を出た時には段ボールの中にまだりんごはたくさん残っていたし、痛みが少ないものはあったはずだ。傷は果実の中心まで浸透していて、そのまま捨てた。
 先週の木曜日に送ってほしいものを考えながら1つずつラインして、最後に「以上の物を送ってほしい」と付け加えたら「何を?」と返ってきた。イライラしてたんだと思うし、そのまま荷物を詰めたのかもしれない。届いたものには、頼んでいないのに私がお菓子作りに使うために戸棚に入れていたクリームの絞り器やココアパウダーが当てつけみたいに入っていた。邪魔だったというのを私に言えなかったのだろうなと思う。
 私は両親に対して言えないことが無くなってしまった。目の前で喧嘩を始めてもテレビの音量を無言で35まで上げてぎょっとさせるし、私に何か言えば同じことを姉にも孫にも言えるかと聞いて心を痛めつけることもできる。友達は私が優しくて思いやりがあるというから私は歪だ。

 生きているだけで不安といものは常に付きまとう。幸せに生きている人も平等に背負う負担だが。私が一番悩まされているのはお金かも。

 小学生の時、服が全部姉のお下がりで到底着ていきたくなかったのでパジャマみたいなのを着て行ってしまった。だって8年前の服が着られる状態なわけないでしょ。ハンカチもどこにあるのか分からなくて、次の日も同じハンカチを持っていったら汚いといじめられた。服が早急に欲しかったけどそういう気持ちは無くなってしまって、とにかく人にゴミみたいな目で見られるのはごめんだと思った。その当時我が家はなぜか服は通販で買うのが主流で、セシールというやけに安い雑誌から服を選んでいた。ちょうどそのあたりで姉は中高生だったため、出費はほとんど姉に向けられたと思う。だからお小遣いを貰うようになって、自分の物は自分で買いなさいと言われたのは救いだった。裁縫道具もエプロンも自分で出す決まりだったけど、お腹がすいた日に安い駄菓子を選んで母親に溜息を吐かれるよりずっと気持ちが楽だった。

 中学に入る時にはもう私は家を継ぐみたいな圧力があって、人間関係ですっかり視野が狭くなっていた私にはその敷かれたレールが安全に見えてしまい、なんとなく受け入れてしまった。父親に、高校になんか行かなくていいだろうと中2の時に言われて、スマホじゃなくて携帯電話で十分だろうとも言われた。私は愛想良くふるまうことに慣れていて、そうだよねスマホなんて持ったら勉強しなくなるから、なんて言ってしまって本当に優しい子供だった。高校は父親が言う通り機械科のある偏差値の低い高校を第一志望にしていたけど、願書を出す2週間前くらいに西高に変えた。
 父親は気付いてしまったかというような表情をしていた。私にはやりたい職業も無かったし、西高の面接でもバカの一つ覚えで「家業の農業を継ぐためにノウガクブにシンガクし~」みたいなことを言ってたけど、西高にした決断には感謝している。受験期にはもう摂食障害に陥っていたし、高校生の時は勉強するよりトイレで吐いている時間の方が長かったからたぶん東高の勉強には付いていけなかった。成績トップを取り続けていた自分が高校では普通の人にも抜かされたら、すがるものが無くなってしまっただろう。鶏口牛後ではないけど、ぬるぬると勉強して西高で上位にある方が良かったのだ。
 大学は家から離れたかったので、東北内の農学部を考えていた。高2で獣医学部に行きたいと言ったら「そんな金は無い、年明けにそんなこと言われるなんて最悪だ時間の無駄だ今年は厄年だ」と言われて泣いた。私のやりたいことは全て厄だ、と自分に言い聞かせて泣いた。マトはとてもやさしい猫なので、泣いている間ずっと抱かせてくれた。別にそこまで獣医になりたかったわけじゃない。母親に「あんたには獣医になってほしかった」と微笑まれて、私にもなりたいものが見えそうだったから大事にしていた夢というだけで。きっと獣医を喜んで受け入れてもらえたら、ちゃんと真面目に進路を考えて里美ちゃんの病状を嘆いて医者を目指したかもしれないし、摂食障害に苦しむ他人を見てやはり医学部を考えたかもしれない。

 父親は最初山大の農学部を散々こき下ろしていたし、私も大学に入ってまで隣の市だなんてごめんだと思っていたので一番遠い弘前大学が良いと言ったが、あの辺りは家賃が高い、誰が金を出すと思ってるんだと言われて結局山大になった。合格した際には散々山大を持ち上げていて、自分が一番喜んでなかった。今になって思うと父親は家賃の相場なんて知らなかったし、私が毎日吐いたり泣いたり海に向かって独り言をぶつぶつ言っているのも知らなかった。

 高3の夏休み明けに塾に行きたいと言って友達が言っている塾の名前を告げたら聞かなかったふりをされたけど、翌日に「あの塾はなんであんなにするんだ、本当にふざけている。塾長を怒鳴ってきた」と言われて息が止まった。きっとその日も友達はその塾にいたし、私の父親の顔を見かけたことがあるかもしれない。クラスでその塾に通っている人は多かったし、「昨日塾にやばい奴来たよな笑」という話題が提供されたらどうしようかと思った。
 どうしてこんなに親と上手くいかないんだろうと思ったのは最初だけで、両親の基準から外れている私の考えがおかしいと思い直した。金がかかるのは怠惰なせいで、姉はたしかにそうだった。それに裕福でも無いと思う。私は金銭を積まなくても勉強できていたが、それが父親にとっての普通になってしまった、つまりは自分の努力が父親の過信に繋げてしまった。世の中には子供を無理やり塾に通わせる親がいる、それが恵まれているかは別として。結局私は姉が通っていた中学生用の塾に居させてもらって、すごく居づらかったし父親がその送迎だけで義務を果たした顔をしているのを情けなく、心底恨んだ。塾の先生は人としてすごく尊敬できる人だったけど、大学なんて受かればいいやとヘラヘラしてしまったこと、後悔してる。本当はこんなとこ行きたくないんだって言って散々泣かせてもらえば良かったな。

 私は片親ではないのだけど、大学寮以外の選択肢は無かったしそれは鶴岡に来ても同じことだった。山形市へ引っ越す日、私は車内で寝たりしなかった。ただ暗い目で真っすぐ前を見ていて、卒業して本当にあの家を継ぐことになったらいつ死ぬんだろうと考えたりした。

 生きてるだけでかかってしまうお金ってどうしてもあるじゃん、年金とか保険とかスマホ代とか。私の親はそういうものは全部出してくれていて、それは感謝している、というか負い目がある。でも普通の親はそれ出してくれないのかな。皆どう?自分で払ってるの?それとも払ってくれてることに対して感謝して土下座してる?普通が分からない。

 私は既の所で逃げられたし、自分の決断に感謝している。両親の声を聞くだけでしんどいけど怖がる理由じゃないのは分かる。完全な被害者面を貫き通すくらいの記憶と国語力もある。今のアパートを探すとき、私が周りの友達をどれだけ羨んだか忘れない。学びたいことを学んで新しい土地で生きる自由ってこうあるべきで、どうしてこんなに頑張って前を向いたのに金銭で苦しめられるんだろうと悲しくなる。医者になりたかったな。心療内科になって、今にも死んでしまいそうな人に寄り添いたいと思う。でも私だって死にたいな~~~~。

 本当に長々と思い話をごめんね。こういうことが生理前に思い起こされて泣いちゃうの。低学年の頃から、頭の中にもう一人話しかけてくるやつがいて、大抵人に怒られた時に「あーあ。」って言う。「まじで生きる意味ないよ」「生きてるだけで迷惑」「本当に情けない」とか、容姿とか。それで直せた所も少なくないけど。「こういうこともあったな」って勝手にそのことを考えさせる。その度にぽろぽろと泣いてしまうから、人のために流した涙なんて人生で本当に少ないと思う。もっとつらい人がいることも分かるし、自分に苛まれる日もある。結局自分が自分を嫌いになったら終わりで、そうなったらいろんな要因と重なって何かの疾患に陥るのだ。

 たぶん親と仲良しな人には1000回読み直しても分からないと思うし、別に諦めとかそういうわけではないしこんな気持ちは分からないのが一番だから気にしないでほしいし、読み返さないでほしい。うつ病の本に書いてあったけど、うつ病患者と普通の人では見ているものは同じだけど、感じていることが違うって。普通の人がそういうこともあったんだ、で済ますエピソードであって、取るに足らないものでしょう。

 私がもし温かい両親の物で育ったら大変だったね泣しか言えないもんたぶん。過去についての共感には限度がある。些細な事でも親の言動は子供に影響すると思うし、両親はその点での閾値が高すぎた。今日読んだ統合失調症の本には、統合失調症を全てを育て親のせいにするのは素人感覚であるとあったけど単純な考え方には相当な影響があるだろうな。周りの似たような友達、泣かなくていいことで泣いたりしてるし。